生きることについて

こんばんは、春緒です。
すっかり朝夕が冷え込んでまいりました。
北の方では雪などのお知らせもちらほら耳にします。
紅葉も進んでますね。美しい季節です。

本日も、たくさんの皆様のご訪問、それから拍手をありがとうございます。
仕事をしていた当時は、毎朝、出勤してからTwitterで朝のご挨拶をしていました。
ほとんど決まった時間でしたね。
だいたい、今ごろの季節になりますと、車窓から富士山が見えまして、そんなことがとても幸せだったように思い出します。
何故でしょうかね? 富士山を見ると、本当に幸せな気持ちになるというか。
「今日はいい一日になるぞ!」
って絶対に思います。
富士山って、そういうお山ですよね。

皆様のまたのご訪問をこころよりお待ち申し上げます。

さて、生きることについて。
ここのところメンタルの不調というか、身体もやや不調ですが、主にメンタルに不調が続いています。
秋になると、さらにちょっと落ち込みがちな気分になります。
ぶっ倒れておりました。
わかりやすく、起立した状態からバターンと倒れたわけではありません。

朝、起床して、洗顔をして、もろもろの片付けをして、座って、動けなくなりました。ゴミを外に捨てに行かなければならないのに、立ち上がれません。そんな状況。
幸い、夫がいろいろと遣ってくれる人であり、また今の私の状態を理解してくれる人でもあります。
動けないなら仕方ない、とばかり、いろいろと片付けてくれるので助かります。
夫よ、仕事大変なのに、申し訳ない……。そして感謝!
この数日、ちょっと本当に寝てばかりでした。
何だか世の中に申し訳がないなー、と思いつつ、ひたすら横たわっておりました。
ちょっと元気になったので、こうしてブログなどしたためております。

生きる、ということは、何なのでしょうね。
こんなに人の役にも立たず、むしろ夫の足を引っ張ってばかりの私に、生きる価値があるのだろうかと、思ってみたりします。
仕事で遅くにやっと寝床についた夫の顔を掴んで、わーーーーっと騒いだり、うなされて夫の腕をとっ捕まえてしがみついたり、非常に、なんていうか、私加害者です。
夫がまいっちゃわないか、心配で仕方ないです。

飄々とした顔で、「んー? そんなこともあったねー」と受け流してくれる夫は、仏じゃないかと思うことがよくありますよ。
私はもうただ夫の後ろ姿に合掌するばかり。ありがたや、ありがたや。

何のために生きているのか、意味がわからない今日この頃です。
役にも立たず、価値もない、私の今はそういう状態のような気がします。
でも別に誰も死ねとは言わないですね。
死に対して意思があるとも言いませんが、ないわけでもありません。

役に立つから生きていい、価値がないから死んで良い。
……そんなことで、死ってわりきれないものですよね。

生き物は、己の死を恐れますし、己の命を危うくする物には全力で抵抗します。
生きるために。
それは本能で、かつ強烈な権利の主張なのかなぁ? なんて思います。
どんなに小さな命でも、命の危険には全力で抗いますとも。それが本能だもの。
命を守ることは本能。それは権利と似てるもの。

命ながら得たいと願う本能を、他者が壊すのはダメなんだと考えます。

役に立つから、偉い人だから、良い人だから、生きていて欲しいと思うのもまあありでしょう。

でも、役に立たないから、偉くないから、悪い人だから、死んでいい、っていうのは、ちょっと違う気がしますね。疑問に感じます。

だからなに? っていう議論を途中で放り投げて、本日のブログはここまでといたします。
生死については、またよくよく考えますわ。

思春期を迎えつつある甥っ子姪っ子に会ったら、そんな話が出てくるかなー、という妄想の元に考察いたしました。
結論は、なかなかでないものでありますが、そういう話をしそうな年頃ですよね。

オバチャン、がんばるー。