変化の季節

こんばんは、春緒です。今日もまあ温かでした。
3月~4月は、変化の季節ですね。
卒業、入学、あるいは就職、などなど。

新卒の人を一斉に企業が採用する、というような方式で人を雇うのは、日本独自の方法だとか。
欧米では中途があたりまえだったり、インターンシップに行ったらそのまま雇われていたり、とか。
年齢もまちまちだったり。いろいろ違うようですね。

ともあれ、これから新生活をお迎えになる皆様、環境の激変に戸惑うこともありましょうが、元気に乗り越えてくださいますよう願っております。

ニュースなどを見て、うーん、思うことがよくあります。
とくにいじめ関連のニュース。
自殺してしまう子のニュース。辛いですね。
いじめを無くすことが最も大切、とはいうものの、根絶はおそらくとてもむずかしいことでしょう。何しろ人間が集団で暮らし始めたころから、生じていた問題のようですし。
だとしたら、どうするか?
まず、芽を摘みましょう。
あの子は違うから変、嫌い、という気持ちについて。
変とは何か、違う理由はなにか、違う事で何が悪いか、そのことが自分にとってどういう影響があるのか。
よく考えてからその気持ちを口に出して欲しいと願います。

みんな違って、みんないい

って、金子みすゞさんがおっしゃってました。
大事な心がけだと思います。

ずるいことをする人は嫌いだと思います。
でも、大勢の前で「ずるい!」と断罪することは、正しいことかどうか。
そしてその役割は自分がするべきことかどうか。
社会的制裁を招く発言や行動を、大きく知らしめることは、正義だと思うかも知れないけど、何に対して正義であるのか。大衆に対して? どうして大衆の正義は正しいの? また制裁を加える権利は誰にあるのか? 
私の個人的な考えでは、理由が何であっても、他人にたいして怒りや暴力をぶつけたり、傷つけたりすることはいけないことと思います。
先にあいつが自分を傷つけた、としても、やり返すことは正しくはないでしょう。
同じようにやり返すのではなく、「貴方が頭に打ち下ろした拳が痛かった。私にはその拳を受ける理由がないと思う。貴方の理由が間違っているなら、貴方は私に謝罪してほしい」というような意味合いを、うまく短く問い返すのがベストかなと思います。謝ってもらっても許せないと思うなら、そのように告げて良いでしょう。

いじめることは恥ずかしいことです。
いじって笑いを取ることも、その場では良いかもしれませんが、いじられた人の感情はちょっと傷ついているかも知れません。
人を傷つけることは快楽ですか?
傷つく人が一人いても、周りの七八人が笑ったら、それはOKになりますか?
目に見えない傷の深さを、どうやって知りますか?
「ふざけただけだし、悪気もなかった。だから大丈夫」
なんて、大丈夫かどうか、判断するのは、いじめた人、いじった人ではありませんよ。
残念なことに、いじめられることも恥ずかしいと思ってしまう子がいます。
子、だけではないでしょうね。
大人だって、いじめられているな、とまず認めたくない状況ですよね。
でも、誰かの言動で心が痛くなったなら、それは言葉の凶器に触れて傷ついてしまった状態なんだと思いますよ。
痛いんですもの。痛みって辛いものですよ。
私がそんなめに遭うはずがない。
私は人から悪口を言われるほど惨めな人間ではない。
私はその程度の嫌がらせで参るほど弱くない。
……そんな思いは捨ててください。
そして不愉快な状況が続くようなら、その場を去りましょう。
人生の中で勝負するのは、そこではないですよ。

いじめ、いじり、は、度が過ぎると人の心を壊します。
悲しいかな、壊れかけていても自覚ができない人も居ます。耐えてしまって、ニコニコ笑ってしまって。まだ大丈夫、と言い聞かせて。
もっと自分を大切にしてくれる場所がありますから。

いじめられたり、なんて親に言えないんですよね、なかなか。
親が自分を大切に思ってくれるならなおさら。
だって、親も辛いって思うでしょう。
お母さんには辛い気持ちになって欲しくないな、って子供は思ってしまうのかもしれないですね。

当然なことを言いますが、一番恥ずかしいのはいじめをする人達ですよ。
そんな人達の性格の更生のために、とか一切考えなくてよろしい。
貴方たちみたいな恥ずかしい人とは一緒にいられない、そう思ったら、とっとと別の場所へ行きましょうね。

英語のみならず、外国語ができてると良いですね。
日本からも出て行けますから。

とりとめのない話になってしまいました。
今日はこの辺で……。